読書日記 2026/09
【本】 ・きつねのはなし 読みながら先月読んだ北沢陶の小説が何故あんなに響かなかったのかについて考えていた。 良い小説の良いところというのは、水や太陽や大地と同じで、あまりにも当たり前だから返って気づかないのではないだろうか。 なので響かなかった小説の響かなかった点について考えることにする。 まず北沢陶の小説が上手いことは間違いない。情景描写は緻密だし登場人物もみんな生き生きとしている。特に大阪の商人を描かせたらこれ以上ないだろう。私は出身が東北なので判別がついていないだけかもしれないが、北沢が描く浪速の商売人は本当に生き生きとしている。 その上で、というよりそれだけに、先日の梅霞は作品全体として見たときにぴんとこなかった。梅霞は愛鳥の死をきっかけにおかしくなった男の話である。男の異変に関連するアイテムとして鳥籠と同業の男が出てくるのだが、これが要素として重複しているため短編として見たときに整合性が今一つになっている。 例えば愛鳥の死の原因が鳥籠にあるなら同業の男は要素として余剰だし、同業の男が主人公の狂気を加速させたというのなら鳥籠が伏線として回収できていない。どちらかだけでもこの物語は十分に成立したと思うので、それら二つが同時に投下されたことによりかえってどっちつかずになってしまっている。ここで鳥籠は元々同業の男の持ち物だった、というオチがつくなら一応の整合性は保たれるのだろうか。 というところまで考えて、ホラーというジャンルの難しさがあると思った。ホラーはミステリやサスペンスと近い領域にあるが、一つの特徴として説明しすぎないことがある。幽霊の正体はわからないほうが不気味だし、怪物は登場しない方が恐ろしい。しかし説明が全くないと、読んでいて不完全燃焼を起こす。 刀城言耶シリーズが面白いのは、ミステリとして成立していた物語に、最後に一点、説明不可能な点が残るからだ。その説明できない点にこそ、ホラーとは何であるかが宿っている。そういう意味で、大島清昭や上條一輝の作品はいささか説明をしすぎる傾向がある。いずれも怪異のルールを解明することで脅威に挑むという点に重きが置かれており、個人的には好きな書き方だ。だからこそ彼らはホラーではなくミステリだとか、ホラー特有の怖さがないだとか言われているのだろうが…。 ここで「きつねのはなし」に戻る。 これは主人公が天城とい...